終わりなき「訪ね歩き」の旅路①

このブログは「日本が自信と誇りを取り戻す国になるよう発言していく」ブログですが、ふと我に返り、自分の人生を書き留めておきたいという気持ちになりました。

 
もう何十年も、そういう書き方をしていませんが、ここに来て、そんな気持ちになったのは、やはり歳のせいでしょうか。
 
タイトルに「終わりなき『訪ね歩き』の旅路」とつけましたように、そう、かれこれ40年近く、何かを求めて「訪ね歩き」を続けた人生のようで、その終着点が見えてきたという気持ちがあって、書き留めておきたいと思ったのです。
 
3年前、こういうことがありました。その1年前まで、東京で少ないながらも月給生活を15年ぐらい続けてきたのですが、いよいよ月給をもらえる仕事にありつけないと見切りをつけた私は、富士山を毎日眺められる地に「ギャラリーカフェ」を開いて、そこで稼ごうと、手持ちの貯えをはたいて貸店舗を借り、いろいろ仕掛けをこらしてオープンしました。
 
しかし、数ヶ月で店を閉めました。赤字から黒字にプランどおりに進まず、気持ちが落ち込んでいたところに家内から泣きが入ったからです。「家のことは心配しないで店を頑張ってね」と声をかけに来たのではなく「戻ってくれない?」と顔に書いてありました。この出来事で、私の気持ちはすっかり萎えてしまいました。このあと続けても成功するはずがない、そう考えてスパッと引き払いました。前の年の秋から半年以上かけて準備をした割には、撤収の潔さに自分でも驚いているくらいです。
 
富士山を毎日眺められる地でのコーヒーショップ開店は、時期尚早だったのです。けれども次の時は楽なもんです。これが終着点の一つのカタチだと感じ、捲土重来を期することにしたのです。
 
いまは、戻ってきて何をやっているかと言うと、もう月給という形で定例的にもらえる仕事にはありつけません。あとは出来高払いの仕事、歩合制の仕事、さもなくば安いパート的な仕事しかありません。
 
幸い、私は10年前に一度、完全歩合制の人材ビジネスを経験したことがあります。その時は、他の月給をもらえる仕事と組み合わせてダブルインカムでした。
 
今度は、完全歩合制だけですが、10年前に、そこそこやれるノウハウは身に着けましたので、その仕事に就きました。いつの間にか3年近く経ちました。
 
私の終わりなき「訪ね歩き」の旅路、それは何のための旅路だったのか、今回書き留めておきたかったのは、それが、結局「自分探しの旅」だったからです。
 
冒頭で「かれこれ40年近く、何かを求めて「訪ね歩き」を続けた人生」と書きましたが、高校受験から55年、大学進学に結びつく高校選びができず、工業高校、地元企業就職と、親(片親である母)の意に沿う形で、18歳で社会人になった私は、ほどなく人生の軌道修正を試みました。
 
ですから、40年近くというより、50年以上、何かを求めて「自分探しの旅」を続けたといっていいと思います。
 
結局自分は何をやりたいんだ。自分には何ができるんだ。自分の人生をどう生きるんだ。自分は人生で何をやったといいたいんだ。自分が人生を終える時、何をやったといえるんだ。
 
すべては、その答えを出すために「訪ね歩き」の旅路を重ねてきたのだと思います。
いまはもう、ほぼ答えは出ていて、あとは残りの人生で、それを仕上げるだけです。
 
それは一言でいえば「日本サッカーが驚異的に進化を遂げた25年を、映像、活字、写真等のあらゆる記録で網羅的に残し、100年先に継承する」ということになると思います。
 
これは、25年以上続けてきたサッカー情報の記録・保存という、膨大な作業、しかし、最終的にどう活かせるのかわからないまま続けてきた果てしない作業について、ここ5年ぐらい前から私の中で、次第に、収斂されてきた目標です。
 
今回、書き留めておきたいと考えたのは、そこに至る紆余曲折の人生を整理したかったからです。
 
 
では、まず、大学進学ができずに地元企業に就職した18歳の私が最初に試みた人生の軌道修正から、終わりなき「訪ね歩き」の旅路を書き進めたいと思います。