終わりなき「訪ね歩き」の旅路③

1988年夏、私は会社の通常の仕事である表玄関側の仕事に変わりました。表玄関側といっても会社で待っている仕事ではなく、日々、こちらが企業さんのところにアポ取りをして出かけるという仕事です。

 

この仕事のため、東京都内はもとより、いわゆる首都圏と言われる周辺3県にも足を延ばし、ひたすら「訪ね歩き」を続けました。

しかし、その仕事も長くは続きませんでした。1990年に入ると日本経済がバブル崩壊の様相を呈し、企業活動は模様眺め、もしくは守りの姿勢に転じ企業訪問しても、景気のいい話がパタッと途絶えてしまったからです。

会社も、自社の収益に直接結びつく活動とはとても言えない仕事に、人を貼り付けておくことがなくなったため、私の仕事自体が取り上げられた形でした。

そうなると、自分の次の身の振り方を自分で考えなければなりません。1991年、43歳になっていた私は、いわゆる転職という形で会社を辞める考えを捨て、自分が仕事を請け負う形で稼いでいこうと決心しました。

幸い、アルバイトをさせてもらっていた時代に、調査報告書を作るという仕事が下請けに出されているビジネスモデルがあることを学んでいましたから、ここ3~4年間に作った人脈を生かして仕事をもらう目星もつけていました。

そして、1992年正月休み明け、私は一大決心をして退職の意思を会社関係者に伝えました。一応、3月末の年度末をもってというプランでした。

しかし、会社に退職の意思を伝えた途端に、ほぼ同時期に難題が降って湧きました。16歳の息子が背骨の中に腫瘍が発生して増殖してしまうという病気にかかったのです。

この年の1月から3月にかけて、原因がわからない状態の息子は、次第に背中の痛みに増し、あちこちの病院に連れ回され、いろいろな検査を受けたのですがわからず、やっと3月下旬になって、病名がわかり、即手術ということになりました。

手術の直前、私は助手の医師に呼ばれ、手術のリスク説明を受けました。その説明を聞いているうち、私は次第に自分の意識が遠のいていくのを感じました。助手の医師が話の途中で「大丈夫ですか?  少し横になりますか?」と言ったので、私は長椅子に横になりました。

助手の医師が私に告げたのは「手術をすれば背骨の中の腫瘍は除去できます。しかし脊髄と隣り合わせのところを除去するので、脊髄が無傷というわけには行きません。脊髄はご存知のとおり、神経の束ですから脊髄が傷つくということは、下半身に行っている神経が傷つくということで、おそらく、どちらかの足がマヒしてしまうと思います。マヒの程度は手術の具合によりますが、多少なりともマヒが出ることは覚悟しておいてください」ということだったのです。

助手の医師の説明が終わり、夜中の手術の終わりを待つ長い時間、私は病院の人気のない暗闇で声をあげて泣きました。

何ということでしょう。あれだけサッカーに打ち込んで、ひとかどの選手に近づいてきた息子の足がマヒするだなんて、お願いですから、足の自由を奪わないで欲しい。

いや、これは自分が会社を辞めるなどと身勝手なことをした天罰なのだろうか。そんなにむごいことをするのでしょうか、天は。天は私を見放すのでしょうか?

私は長い手術の時間をどうやって過ごしたのかわかりません。しかし、覚悟は決めました。息子がどんな身体になり、どんな絶望のどん底に落とされようとも、私は明るく振舞い、息子を支え、息子の人生を再び明るくしてあげることに全力を尽くす。

そう心に決めました。もう、私が取り乱したりしてはならないのです。

夜が白々と明けるころ、手術が終わりストレッチャーとともに先生が戻ってきました。

「うん、大丈夫だと思うよ」

それだけ言って、とりあえず先生は帰っていきました。

それから2時間もたったでしょうか。麻酔が覚めたころを見計らって先生がやってきて、息子の足先のほうに回り「どうだ、動くか?」と、両方の足の指をつまみました。

「おぉ、動くな、大丈夫だな。神経が1本か2本は切れたけど、影響ないから・・」そう言って明るく笑いました。

この時、私は先生が神様か仏様のように感じました。

私たちは絶望の淵からの生還を許されたのです。

私は、いまも、あの「もう決して取り乱さない」と決めた覚悟のあとの、無事だったという結果、それがどう天に通じたのかどうか、今もわかりません。でも、そういう覚悟は必要だと痛感しました。

1992年の3月末で退職というスケジュールは数か月延びましたが、7月末で退職、7年半住んだ5階建社宅を後にして、自前で借りたマンションに引っ越しました。