終わりなき「訪ね歩き」の旅路②

18歳で就職した私が最初に試みた軌道修正は、大学に入ることです。何のためにという目的を持たず、大学に入ること自体が目的の軌道修正でした。
 
その軌道修正に10年かかりました。最初は会社を辞めて大学に入ることでした。その目標を共有した会社の同期入社の友人と、切磋琢磨したつもりでしたが、友人のほうは見事に目的を果たした一方、私はズルズルと延期しました。理由は、人を好きになって、それどころではなくなったからです。結果として私は友人を裏切ってしまいました。
 
友人は単身、会社を退職して東京の大学に進学しました。私は大学受験は遠い夢となり、かわりに結婚しました。21歳と6ケ月での結婚です。
 
でも結婚したからと言って、大学進学そのものをあきらめはしませんでした。当分は粛々と仕事に励み、何か手がかりができるのを待つしかありません。
 
通信制大学なども検討しましたが、夏のスクーリングで1ケ月も休むというタイプの選択は私の趣味ではありませんでした。
 
入社後11年目にチャンスが到来しました。夜間大学に通える環境を得たのです。私の生まれ育ちは地方都市ながら大学が何校もある中核都市でしたが、就職して仕事をする場として、いわゆる「田舎のまち」を選びました。誰も知る人のいない土地で仕事をしたかったのです。仕事をしている自分を見られるのが恥ずかしいと感じた選択でした。
 
そのため仕事先の町には大学一つなく、こと大学に入ることについては雌伏の年月を重ねざるを得なかったのです。
 
それが11年後に、生まれ育った中核都市に戻るチャンスを得たのです。中核都市に戻った私は、新しい仕事で1年様子を見たのち、所属長が交代したのをチャンスとばかり、私は夜間大学に入りました。
 
私は、その大学入学を、自分の社内昇進の箔付けにしようとしました。高卒ではなく大卒という学歴を得ようとしたのです。新卒の大卒並みとはいかないまでも、ある程度の力を得るのではないかと考えたのですが、それは甘い考えでした。
 
高卒はどこまで行っても高卒、後学歴といって、その履歴も多少の材料にはなるものの、あくまで「多少の材料になる」程度のものでしかないことを知り、再び、私の「何かを求めての「訪ね歩き」」が始まりました。
 
折しも、私は、自分の力量に自信を持ち始める一方、ルーチンの仕事に穴をあける失態もしでかすという、鼻持ちならない社員になっていました。
 
1983年夏、その春に夜間大学を卒業した私に異動が待っていました。ちょうど同期の連中が昇進異動となる中、私はスライド異動になったのです。自分の力に自信を持ち始めていた中で、プライドがズタズタにされた感覚を抱いた時、私は組織への帰属意識を喪失しました。
 
その当時、まだ転職活動の助けになるようなツールは少なかったのですが、新聞などを見て転職支援の会社の存在というものを知り、東京に何度か出てきたことがあります。
 新橋にあったその会社を訪ね歩いたことが、本格的な訪ね歩きの最初だったかも知れません。
 
ところが、1985年夏、会社は私に「東京勤務」の辞令を出しました。なんと、自分がわざわざ東京に行かなくても、都内で転職活動ができる道が開けたのです。
 

今日、8月12日は「日航ジャンボ機墜落事故」により日本航空史上最悪の520名の犠牲者が出た日です。さきほど18時56分、私も追悼の黙とうを捧げました。

1985年のこの日、私たち家族は東京転勤のため、築30年の5階建社宅の1階に引っ越して、荷ほどきを済ませ、テレビを据え付け電源を入れた時に、そのニュースを目にしました。

その時は、何やら大事故が起きたらしいという程度でしたが、翌朝からは大変な大事故だということで、大騒ぎになったものです。

私たちの東京での生活は、そうして始まりました。

まず子供たちを東京での生活になじませること、そして自分も、与えられた仕事を黙々とこなすことに当分は集中しましたが、翌年あたりから、日本全体がバブル景気に沸き、どうも社会が浮ついているように見えてきました。

私は次第に仕事にも慣れて、東京での生活も板についてきたように感じた頃から、会社の裏口の受付を担うこととなり、表玄関に来る人たちとは別世界の人たちの応対にあたる日々を過ごすことになりました。

こうした仕事をしながら、私は自分が体よく東京に引き取られたことを知りました。つまり、東京への転勤は、行き場のない私に、東京での裏口受付という仕事をさせるために、まるで引き取られたような異動だったのです。

ここでも肩書のつかないスライド異動でしたから、居心地の悪いことこの上ありません。40歳を超えても平社員というのは、なかなか社内全体を探しても見当たるものではありません。

もはや家族のためにという、ただ一点で持ちこたえていたような気がします。特に、小学生高学年になった息子が、サッカースクールの中で中心的な選手になっていくのが楽しみで、自分もサッカーというスポーツを知ることに余暇を費やしていました。

この時期の「訪ね歩き」は、サッカー観戦のために国立競技場や西が丘サッカー場などに足を運びながら、ついでに東京の街角を、まるでうろつくような感じで歩き回ったものです。

その結果とも言えるのですが、伊丹十三監督が手掛けた映画「マルサの女」の渋谷ロケの場面に映り込んでしまい、遠くの事業所にいた会社の知り合いから突然「映画に出てたな、見たぞ」という電話をもらったことがあります。

最初は何のことか全然わからなかったのですが、そのうち映画そのものを詳しく観たりして「あぁ、どうもあの時、なんだろう、映画のロケをやってるかも」と思って通り過ぎたことを思い出しました。

画面には一瞬、間抜けな顔で通り過ぎる自分が映っているのですが、思わぬ形での映画出演という、今となってはいい思い出です。

 

時代は昭和から平成に。1989年1月6日の昭和天皇崩御の日の朝は、しけ寒い陰鬱な朝だったことを覚えています。まだバブル経済がはじけていないのに、何か「このまま続くはずはないのでは」という根拠のない不安が頭をもたげてきたことも覚えています。

私はと言えば、1988年夏に、仕事が裏口受付から、表玄関側に変わりました。今度は外回り企業訪問が仕事になりました。