終わりなき「訪ね歩き」の旅路(最終章の次章)

一旦筆をおいたつもりの、わが人生終わりなき「訪ね歩き」の旅路。

一つ大切なことをやり残していることに気が付きました。それは母方のルーツ探しです。

両親は、その親の世代が台湾に渡った関係で、ともに台湾で生まれ育ち、出会い、結婚しました。

結婚したのが昭和10年か11年、昭和12年に私の長兄が生まれました。その頃までは、まだ戦争の足音も聞こえるか聞こえないぐらいの時期でしたから、母は大正末期から昭和初期にかけて、大変、裕福な、そして楽しい青春を過ごしたと思います。

ところが、昭和20年の敗戦で台湾を出なければならなくなった時から、苦難の人生を歩んできました。

父の実家筋を頼って、住む場所を探したものの、長い間、音信がなく、しかも、その子供の世代である両親たちに、実家筋の対応は冷たいものだったようです。

やむなく、父の仕事が見つかる都会暮らしを選んだものの、いわゆるバラック小屋での生活が始まったのです。

それでも、父が健在であれば、何の問題もなく戦後の復興とともに、日本国内での生活も軌道に乗ったことでしょうが、病を得て昭和24年、あっけなく他界してしまいました。

まさに、母の真の苦難はそこから始まったのです。

その前年に生まれた私は、とても母の手が借りられるような状態ではありませんでしたから、育児院に預けられて小学入学までの期間を、過ごしました。

私の性格は、幼少期の育児院暮らしの中で形成されてしまった部分が多分にあると思います。それは、いいほうに働いている性格と、悪いほうに働いている性格、両方です。

そんな心理学的な分析よりも、母が、その後、20年近くにわたって日々の暮らしに汲々とせざるを得ない生活を送ってきたせいか、自分の結婚前の、旧姓時代の家族のことを話す機会がないまま、年をとり、私たちが聞いておかなければ、と気づいた時は、すでに遅しでした。

仕方がありません。母は自分の両親のことを何も語らずに世を去ってしまいました。あとは、私たちが、いろいろな方法でルーツ探しをするしかありません。

その作業を始めたのは平成22年(2010年)になってからでした。その年は、横浜開港150年の節目ということで、開港時の横浜のことが話題になった年でした。

横浜は、実は母の戸籍上の実家があった土地です。まさに横浜開港時に出来た新たな街並みの一角が戸籍上の住所になっていたのです。

そこで、横浜の開港資料館なるところを訪ねて、いろいろ文献あさりをしたところから始まりました。

それは、母の父親について、何か手がかりを得るためです。一方、母の母親については、私の兄が担当しました。

母の母親という人は福島県相馬市の出身だということがわかり、兄はその地に通い詰めて、いろいろな縁を頼りに情報収集した結果、ずいぶん、その人となりが、わかってきました。

 

しかし、その情報収集を通じて、旦那さんである母の父親については、何も情報が得られませんでした。

東京の私は、横浜の開港資料館の次に、都内六本木にある日本台湾交流協会の図書室というところに通い詰めました。ここは図書室というより、立派な図書館で、日本統治時代の資料が大切に保管されています。

そこで、私は母の父親の痕跡がないどうか、それこそ1ページ1ページ、丹念に文献をあたりましたが、何も見つかりませんでした。

そうしているうちに、母の父親の痕跡がないのは、何か理由があってのことではないかと疑問を抱くようになりました。

それまで出ていた「母の父親」の仕事は、例えば医療関係者ではなかったかとか、防疫関係者ではなかったかとか、いろいろあるのですが、とにもかくにも、母がさっぱり話してくれなかったこと自体に、何か理由があるのではないかと思うようになったのです。

となると、ますます調べ尽くさなければならないと思うようになりました。あと、どこを調べればいいのか。

一つ、私が温めているのは拓殖大学図書館というところです。ここには日本最大級の台湾関係の資料が収められていると聞きました。

でも、拓大図書館には、一般人は出入りできません。出入りできるようになるには拓大関係者、つまり学生になるしかないと思っています。

私がやり残した「訪ね歩き」の旅路は、拓大図書館で文献にあたり私のルーツである「母の父親」が何者かを探し当てることなのです。

あと何年後に、拓大の学生になる挑戦ができるか。その方法は、まだ何も調べていません。毎日を日曜日として使える日がまだ来ていないためです。

でも、あきらめていません。5年後ぐらいには、その日が来るのではないかと、想像しているところです。