「フォリー・ベルジェーヌの酒場にて」の憂鬱

「フォリー・ベルジェーヌの酒場にて」

「酒場にて」の部分を「バー」としている文献が多いのかも知れませんが、私は頑として「酒場にて」で行きます。

 

画家エドワール・マネの晩年の作品、英国ロンドン・コートールド美術館に所蔵されているこの絵が、私の知っている限り3度目の来日を果たしました。

同美術館に収蔵されていて、二枚看板のように、今回も来日したルノアールの「桟敷席」とともにです。

「フォリー・ベルジェーヌの酒場にて」

この絵が最初に来日したのは1984年だそうです。私は1980年か1982年頃だと思っていたのですが、gooブログの「東京でカラヴァッチョ 日記」さんのブログによれば、

印象派後期印象派展 : ロンドン大学コートールド・コレクション
1984.1.12〜2.28  日本橋高島屋
1984.3.8〜4.3   四条高島屋
1984.4.12〜5.8   なんば高島屋
となっています。

高島屋百貨店が、おそらく日経新聞社とともにだと思いますが(この当時のことを詳細確認していないので、少し間違っているかも知れません)、呼んだと思います。

その当時、私はまだ地方都市住まいでしたから、東京・京都、大阪の高島屋でしか見れない「フォリー・ベルジェーヌの酒場にて」を見たい、見たいと悶々として3ケ月以上もしかしたら4ケ月以上、過ごしていました。

当時、見に行くには、まだ泊りがけでなければ行けませんはし、仕事もあり、遊んでもらいたい盛りの子供たちもいる中で、1枚あるいは2枚の絵を見るために、費用と時間を費やすのは容易なことではありませんでした。

そうしているうち、東京高島屋での展示会期は終了して、京都も終わり、最後の大阪に移り、その会期も少なくなってきた頃、私は意を決して、職場の上司に具体的な理由を話して休暇願いを出しました。

思えば、この時から上司は「こりゃダメだ、何を考えてるんだねコイツは」と思ったことでしょう。そのあとの私の人生も違ったものになったような気がしますから。

それはそれとして勇躍、休暇をとった私は、大阪・なんばにある高島屋に出かけました。恋焦がれた、その乙女に会える、その時の喜びはいまでも忘れられません。

ほの暗い展示室に浮かび上がった「フォリー・ベルジェーヌの酒場にて佇む乙女」に会い、本当に私は至福の喜びを味わいました。

当時、あまりお客さんがいない時代だったようです。私は10分、15分と好きなだけその絵の前にいられました。

そして、また、いつか見られるの、もう、あとはロンドンに出かける機会を作って見にいくしかないのか、などと思いを巡らせながら、大阪の旅を終えたのです。

次に見る機会に恵まれたのも、やはり高島屋の「ロンドン・コートールド美術館展」のおかけでした。それが何年前だったのか、全然手がかりがなかったのですが、さきほどご紹介した「東京でカラヴァッチョ 日記」さんのブログによれば、それは1997年暮れから1998年2月までの日本橋高島屋での展示会だったとのことです。

コートールド・コレクション展 
1997.12.26〜98.2.17  日本橋高島屋 
1998.2.20〜3.17  なんば高島屋   
1998.4.16〜5.12  京都高島屋
この時、私は東京暮らしをしていましたので、日本橋高島屋で2回目の対面を果たしました。
不思議なもので1回目ほどの感激も興奮もなく、でも、やはり見に来てよかったという思いは強く残りました。
 
そして今年、上野の東京都美術館に3度目の来日を果たしました。
見に行きました。そこで感じたのが、今回のタイトルにした「憂鬱」です。いまや年寄り世代が、暇とカネを持て余している時代です。NHKの番組「日曜美術館」でも詳しく紹介されたせいもあり、都美術館には大勢の人が詰めかけました。幸い平日午前中だったこともあり、チケット売り場前で並ぶことはありませんでしたが、絵の前には大勢の人がいて、とても、ゆっくりと3度目の対面を果たした気分にはなれませんでした。
 
もう、これから先は国内では、仮に来日して見ることはないでしょう。私にとって「フォリー・ベルジェーヌの酒場にて佇む乙女」は、そんな人混みの中で、そそくさと見るような対象ではないからです。
 
そして、いまはもう、「彼女は、娼婦も兼ねていたかも知れないのであり、あの虚ろに見える表情は、そうした職業の人にありがちな虚無的な表情かも知れない」などと解説された日にゃ、「やめてくれぇ~、彼女をそんな風に言うなんて許せねぇ~」と叫びたくなる憂鬱でもあるのです。
 
絵を見るのに、そんな知識は無用だょ、という気持ちが、どうしても頭の片隅にあります。そりゃ「何にも知らずに「いい絵だ」なんて言ってるのかぁ」と突っ込まれるかも知れませんが、そんなことはどうでもいい。「この絵が好きかどうか」「この絵がどれだけ好きか」だけで絵をみたい、それが出来た1980年代の「なんば高島屋」での体験は、かけがえのない私の財産です。
 
都美術館で味わった言い知れぬ憂鬱、どうしても書き留めておきたかった感覚でした。