一生の間に一度も災厄に見舞われずに人生を終えるということの難しさでしょうか? 武漢ウィルス禍

中国・武漢から拡がった新型ウィルス禍は、文字通り全世界に拡散して、終息の見通しどころか、さらにどれだけ拡大するのかすらわからない猛威です。

 

各国首脳が相次いで「戦争状態にある」と表明するなど、まさに世界中を巻き込んだ戦争の様相を示しています。

 

ひとたび世界規模の戦争状態になれば、どれだけの時間がかかるのかはわかりませんが、終われば、それ以前の状態とは全く異なる世界が出現することは間違いありません。

 

日本では、先の大戦でそのような経験をしました。1945年8月に戦争が終わり、それ以前の状況とは全く異なる日本になったわけですが、1945年8月にゼロ歳児いや2歳ぐらいだった人たち以降に生まれた人たちは、いわゆる「戦争の災厄」に見舞われずに人生を送ってきたと言えます。

 

ただ私などは、戦争が父を奪い(戦死とかではありませんでしたが、戦争がなければ早死することもなかったという意味ですが)、母の手一つで経済的に苦しい児童・生徒時代でしたから、ある程度は「災厄」に見舞われたと思っていますが、それでも大人になってからの50年以上は、戦争状態の「災厄」に見舞われることはなかったと言っていいと思います。

 

日本の場合、2011年3月11日の「東日本大震災」という国難に見舞われましたから、特に被災地をはじめとした関係地域は、ごく最近、戦争状態の「災厄」を経験したと言っていいでしょう。私は直接の被災も親族の被災もありませんでしたので、ほぼ2年後、特に第二次安倍内閣が発足して、いろいろな意味で希望が戻ってきてからは、それ以前の平静さを取り戻したような気がします。

 

しかし、ここにきての武漢ウィルス禍です。ウィルス感染の終息がまず先決ですが、その後にやってくる経済の落ち込み、社会の閉塞感といったものが、どの程度のひどさで、どれぐらいの期間影響するか、まだ全く先が見えない状況です。

 

その時思うのが、一生の間に一度も災厄に見舞われずに人生を終えることができる、などというのは幻想であって、現代の世界の人々も、過去の長い歴史に生きた人々と同じように、人生のうち必ず一度は災厄に見舞われる運命にあり、まだまだ「一度も災厄に見舞われずに人生を終える」ことができる時代には程遠いのかも知れません。

 

ある意味、それは当然かも知れません。

と言いますのは、私たちは、いわゆる西側陣営の価値観、すなわち、一人ひとりの人間が「自由」であることを何よりも尊び、平和や人権、法の秩序、民主主義といった価値観を大切にすることを歴史の教訓として学び、二度とこの価値観を失ってはいけないという思いで生きているわけですが、同じこの現代の世界には、そのような価値観とは異なる体制で生きる国があるのですから、いつなんどき「災厄」が降りかかってきてもおかしくないわけです。

 

今回の武漢ウィルス禍が、まさに、そういう国からもたらされたことを思えば、現代がまだ「一度も災厄に見舞われずに人生を終える」ことができる時代とは程遠い時代であることを実証したわけです。

 

武漢ウィルス禍が始まる前まで、私たちは、もし災厄に見舞われる可能性があるとすれば、それは北朝鮮の脅威です、といった漠とした思いを抱いていましたが、なんのなんの、北朝鮮と勝るとも劣らない「価値観の異なる体制」で生きている巨大国家・中国が、その異形さを、武漢ウィルス禍という形で、まざまざと見せつけてくれたということでしょう。

 

さながら「『北朝鮮の脅威』? 笑わせるな、本当の脅威というのは、あんな子供騙しのようなものじゃないぞ、「価値観の異なる体制」で生きる国家の本当の脅威というのは、こういうことなんだよ」と言わんばかりのマグニチュードです。

 

果たして何年か後に「武漢ウィルス禍」戦後といわれる時が来る時、世界はどういう体制に組み直されるのでしょうか?

さきの大戦後、ソ連という「価値観の異なる体制」で生きている巨大国家の時代が数十年続いたあと、中国が次の「価値観の異なる体制」で生きている巨大国家になりました。

 

おそらく、世界はその継続を許さないでしょう。許すということは時代を逆戻りさせることに他ならないからです。時代が進化して世界がまた一歩、進んだ形、つまり「一生の間に一度も災厄に見舞われずに人生を終える」可能性が少しでも高まる形になるには、いまの拒否権を持つ5つの国家の中に、一つは明らかに「価値観の異なる体制」で生きている巨大国家、もう一つも、それへの回帰懸念がありそうな国家が存在するような体制の継続はダメだ、ということになるでしょう。

 

今回、国連機関であるWHOが、まったく意味のない機関になり下がったことを全世界の人たちが知ってしまいましたから、拒否権を持つ5つの国家のもとの国連体制に対する信認は地に落ちたと言えます。

 

さりとて、どのような秩序が形成されるのか、まだ、誰にもわかりません。「武漢ウィルス禍」発祥の国・中国では、その責任を感じて姿勢を低くするどころか、これ幸いにとばかり、中国型統治モデルこそがいいのだ、と喧伝しているようですが、それは「中国」という国が、これほどまでに「価値観の異なる体制の国」であることを、自由、平和、人権、法の秩序、民主主義といった価値観を大切にする側の国の人々に強調しているだけで、逆効果であることにすら気づいていないようです。

 

ですから、私たちは中国という国が内側からどう崩れていのか、どの時期に崩れていくのかを見て、次の世界の秩序を考えることになると思います。

 

武漢ウィルス禍」によって「一生の間に一度も災厄に見舞われずに人生を終えるということの難しさ」を思い知らされた気がして、そのことを書き留めておかなければならないと感じた次第です。