習近平の北京五輪とヒトラーのベルリン五輪、その同質性にもとづく危機感

最近掲載された産経新聞モンテーニュとの対話 「随想録」を読みながら】のテーマは、「民族の弾圧・虐殺…ベルリン五輪前夜のごとし」だった。

新聞掲載が何日だったか、見つからなくてweb産経newsを頼りにしていたら、4月3日付けで、その記事がアップされていたので助かった。

 

新聞を読んだ夜に寝床で物思いに耽った時の内容を、暗い中、メモ用紙に走り書きしておいた。

「確かに、いまの中国の状況は、ヒトラー時代のベルリン五輪の前夜と同じ様相に違いない。だから、このまま時間が流れれば、来る事態は想像がつく。しかし『歴史に学ぶ真価』というのは、このまま座して看過することではなかろう」と。

 

すなわち、歴史から学び進歩があるのが人類社会なのだ、と思いたいのだ。

 

けれども、歴史から学んで進歩するには、何十年程度の時間では足りないのもまた歴史の教えるところで、しばしば「歴史は繰り返される」

 

やはり、ヒトラーと同じことを習近平が繰り返さないようにするには、何人かの強力なリーダーの出現が欠かせない。

 

「日本は中国なしに経済が成り立たない国なのだから・・・」といって、このまま座して中国になすすべを持たないようでは、あまりにも情けない。

 

産経新聞モンテーニュとの対話・・・】では、IOCの理事たちに「『ノブレス・オブリージュ』と唱えながら、勇気ある行動を起こしてくれないか。」と呼び掛けているが、それも無理な相談だろう。

 

結局、ヒトラーの時代は第二次世界大戦という戦争を経て、チャーチルなどの強力なリーダーによってナチ独裁が葬られた。

 

また戦禍をくぐれば、大変な犠牲を払わなければならない。自由と民主主義を基本的な価値とする陣営に、複数の強力なリーダーが立ち、敢然と中国共産党独裁を葬ろうとしなければ、戦禍に見舞われることになる。

 

いまの日本は、とにかく「中国なしに経済が成り立たない国なのだから・・・」という論理に、すべて押し流されている。

 

「いや、そうではない」という論理を押し立てられない。

日本というのは不思議な国だ。「中国は、日本にそんなにひどいことはしないだろう」という根拠のない希望的観測が国中を覆っている。

 

その中国が「これまでの100年間、中国は屈辱を受け続けてきた。アヘン戦争に始まり、日清戦争義和団の乱満州事変、日中戦争、この5つの戦争のうち4つに日本が絡んでいる。日本は中国の屈辱を晴らさなければならない最大の敵なのであり、中華民族の偉大なる復興は、日本への復讐なしにはあり得ない」と言っていることを認識している日本人が一体どれほどいるのか。

 

並みの日本人なら、習近平の野望の根本部分に「日本への復讐」があるのだと知れば「中国は、日本にそんなにひどいことはしないだろう」と、どうしてノンキにしていられるのか。

 

そして、その復讐を実行するのが北京五輪が終わった「祭りのあと」だと予測されているのに、まだノンキに構えている日本国民が、本当にわからない。

 

「中国なしに経済が成り立たない国なのだから・・・」という論理さえ突き崩せればと思うが、それが見いだせない。

強力なリーダーの出現を待望する。「いや、そうではない」といって、経済にもたれかかっている論理を突き崩し、中国共産党の野望に敢然と異を唱え日本を一つにまとめてくれるリーダーの出現を。

 

そして、日本だけが「敢然と異を唱える」だけでは孤立してしまうので、クワッド(日、米、豪、印)が同じベクトルで動けるよう、それらの国にも強力なリーダーの出現を望む。

 

手元に3冊の本がある。

ヘンリー・ストークス著「世界は「中国に対峙できる日本」を望んでいる」

楊海英著「世界を不幸にする植民地主義国家・中国」

遠藤誉著「習近平 父を破滅させた鄧小平への復讐」

これらジャーナリズムの中では、習近平中国共産党独裁が、ヒトラー時代と同じだということが、はっきりと指摘されている。

 

にもかかわらず、日本の日常は、第二次世界大戦前夜だという危機感など、まるでない。

私一人にも、どうすることもできない。しかし、何とかできないだろうかという思いだけは残っている。