終わりなき「訪ね歩き」の旅路⑥

会社員生活を辞めて以降の27年間、うち4年間のどん底期間、そんな時でも辞めずに続けてきたことがあります。

それが、終わりなき「訪ね歩き」の旅路のゴールになるであろう、仕込みのための作業だったことになります。それは「サッカー情報の記録と収集」という作業です。

私をサッカーの世界に誘ってくれたのは息子です。息子は1980年代半ば、小学校3年生からサッカーを始め、4年生の夏に東京に来てからも続け、5年生からは、知名度が高くうまい選手が多く集まっているサッカースクールに通うようになって、生活の中心がサッカーになり始めました。

私も、息子の追っかけに多くの時間を割くようになり、それにつられてサッカーの世界を少しづつ知るようになりました。

1990年頃になるとプロサッカーリーグの創設が具体化して、息子も中学、高校に進むにつれ、プロサッカー選手への道が視野に入るようになってきました。

私は私で、ぼんやりと、サッカーをビジネスにできないかと考え始め、いろいろなところに顔を出したり、それこそ訪ね歩き回ったものです。

そうこうしているうちに、1992年夏、私は会社を辞め、日本のサッカーは翌年春のリーグスタートを前にした準備期間に入りました。しかし息子は、その年の正月からの大病(背骨の中に腫瘍ができてしまったという病気)のため、サッカー生活にブランクが生じ、ハンディキャップを負ってしまいました。それでもプロ選手の道をあきらめずに練習を再開しました。

1993年に入り、Jリーグと命名されたプロリーグの試合が、当時まだ知られていなかったCS放送で全試合放送されることを知り、私に一つのプランが浮かびました。

試合をすべて録画して記録に残すことです。一試合残さずに録画する、そのことに全力をあげるというブランです。

それで何をするという目的はまだありませんでした。とにかく録画する。そのこと自体が目的でした。

自営業の私には、それできる時間の自由と資金的な余裕がありました。最初は2台のビデオデキッキでしたが、次第に3台、4台と増えていきました。時には電波状態の不良や録画ミスで、2試合も3試合も欠けてしまうことがありましたが、1993年と1994年は全試合市販ビデオも販売されて、録画ミスした試合は、市販ビデオを補充して続けました。

1995年からは全試合放送がなくなりましたが、かといって、できるだけ多くの試合映像を集めたいという意欲は高まり、全国各地のホームタウンの地元テレビ局の放送映像を集める工夫をしました。

私は、サッカー専門誌の投稿欄に、その希望を載せ、録画ビデオを持っている人から借りてダビングされてもらう方法もとりました。広島、静岡、名古屋などに加え、新たにJリーグ入りした福岡、京都などに住んでいる人たちからも協力を得て集めました。

録画したり、ダビングさせてもらったビデオは年間、何百本ペースでたまっていきます。Jリーグが始まると試合だけでなく、サッカー専門番組もNHK-BS、TBS、テレビ朝日などで次々とスタートしましたから、それも録画を始めました。

さらには、録画だけではなくサッカー専門誌のバックナンバー、スポーツ紙の1面を飾った記事の収集・保存も始めました。

いわば、日本国内におけるサッカー情報を全て網羅して記録・収集・保存するという作業に膨らんでいったのです。

1996年のアトランタ五輪サッカー出場、1997年のフランスW杯アジア予選、そして1998年のフランスW杯出場などによって、日本サッカーは空前の社会的関心を呼び、テレビはワイドショーまでもが、雑誌でも、専門誌にとどまらず、週刊誌などにもいろいろと記事が載るようになりました。

それらを必死になって録画し、また買い集め保存しました。1998年にはビデオデッキ5台を使って同時並行で放送される各テレビ局の番組を録画しまくったものです。

それらのビデオテープや雑誌、新聞の保管がこれまた大変な負担になりました。1998

年のワールドカップ以降、私は生活自体がどん底時代に入りましたから、本来でしたらカネにならない録画・収集は辞めてもよかったわけですが、私は辞める気などさらさらありませんでした。

とった対策は、それらの収集物を家族の目にふれないところに移動させて保管すること、その結果、コスト低減になること、この2つの狙いから、少しづつ遠隔地に保管場所を移動させざるを得ませんでした。

2000年秋の「サッカーシアタールーム」閉鎖とともに保管場所の流浪の旅が始まりました。最初は家から自転車で行けるところに借りて2年、次に一気に神奈川県秦野市まで移動して4年、そして最後は神奈川県二宮町に6年、まるで歴史史料か芸術品の疎開です。その都度、保管品の点検を欠かさないようにしてきました。

本格的な記録・保存を始めてから20年、保管場所の流浪が始まってから10年経過したあたりから、私は新たな使命に目覚めることになりました。

時代はデジタル保存技術の進化によって、ビデオテープもデジタル変換してハードディスクに保存することができ、紙媒体もPDFに変換してすべてハードディスクに保存できる時代になったのです。

しかも、私のような資金力がない者でも可能な時代に、です。辛抱して記録を続け保存を続けてきた者だけに与えられた神様からのプレゼントのようなものです。

2012年6月から、まずビデオテープのデジタル変換、ハードディスクへの保存を始めました。同時並行でファイルメーカーというデータベースソフトを使って、それらの映像記録をデータベース化する作業も続けています。

2018年になってからは、A3版サイズのプリンタを、我々でも持てる価格になったことから早速入れて、紙媒体をPDFに変換する作業を始めました。

私は2014年に、世界最高齢の現役サッカージャーナリストで、その後、FIFAFIFA会長特別賞を授与された賀川浩さんにお会いする機会を得ました。神戸市立中央図書館に「賀川文庫」というご自身のサッカー資料のすべてを寄贈したことで用意された部屋があることを知り、そこを訪問したいと考え、神戸市立中央図書館にお願いしたものです。

その時、賀川さんから大切な教えをいただきました。「デジタル時代になってからの記録は、ネットで何とか手に入るけれど、アナログ時代の記録は、保存しないと、あとあと調べようにも方法がない、あなたの取り組みは貴重だ。」という教えです。

それ以降、私は「サッカー文化としてのJリーグの試合放送と関連番組、関連サッカー誌、スポーツ紙等の情報を100年先に繋ぎ継承していく」ことを、自分の使命と自覚できるようになりました。

私の人生は、これを成し遂げることで、一つ完結できるんだという気持ちになっているのです。

これが、「終わりなき『訪ね歩き』の旅路」のゴールなんだと思うのです。ですから、いまは、日々の稼ぎのために時間を費やしていますが、それによって得た蓄えで、あとはサッカーの記録をひたすら変換・保存してデータベースで体系化して100年先に繋げるよう、継承できる手ごたえをつかむことを考えている昨今です。

おそらくの話ですが、80歳近くにでもなれば、そのようなことができると思います。もう稼がなくてもいい時が。

その時には、富士山が見えるところに、サッカー資料館風のカフェをオープンして、100インチぐらいのテレビ画面にサッカーの映像を映しながら、訪ねてきた人は勝手に室内を見て回り、傍らでは、時折彼らの相手をしながらも、ひたすらデジタル変換とPDF変換に明け暮れる年寄りがいる、気が向いたら音楽をかけ、気が向いたらコーヒーを飲む、気が向いたら昼寝する、そんな人間に私はなりたいと思っています。

そうやって10年ぐらい生活をしていれば、長い間続けてきた「訪ね歩き」の旅路から解放されて、自然と寿命も尽きるのではないかと思っています。