「たそがれ清兵衛」「蝉しぐれ」何度見ても日本人であることを幸せに感じます。

昨夜、BS日テレで「たそがれ清兵衛」を放送してくれた。藤沢周平作品のうち「たそがれ清兵衛」と「蝉しぐれ」は、テレビ各局が、入れ替わり立ち替わり放送してくれるので、時々、どこかのチャンネルで見られる。
 
そして、見るたびに思うのは、例えば清兵衛が我が子と交わす言葉、例えば職場で交わされる会話、一つひとつが平均的な日本人の思い、ごく普通の日本人が抱く心情を投影しているように思えて、そのことに幸福感があふれる。
 
もしかして、それは、作者が東北人で、私も東北人であることにも関係しているかも知れない。
 
たそがれ清兵衛」で、清兵衛は藩命による討手役となった翌朝、意を決して親友の妹・朋江に求婚するものの、朋江が縁談を受けてしまった後だと知る。
 
清兵衛が手傷を負いながらも討手役を果たし、血まみれになって住まいに戻る。清兵衛は、老いた母と小さな娘2人との、これまでどおりの暮らしに戻ったつもりだったが、そこには朋江が待っていてくれた。このハッピーエンドで終わるなら、映画としてはリアリティを欠いてしまう。
 
この映画は上の娘が長じてからの回想仕立てになっており、それはナレーションで示される。その後、清兵衛は一兵卒として戦争に駆り出され、あえなく敵の銃弾に倒れたとナレーションが語る。幸せな生活はわずか3年だったと。
 
しかしナレーションは最後にこう語って映画を結んでいる。。「たそがれ清兵衛は不運な男だという人もいるが、私はそうは思わない。私たち娘を愛し、美しい朋江さんに愛され、充足した思いで短い人生を過ごしたにちがいない。そんな父を誇りに思う」
 
私もそうだが、映画を見た多くの人々が「多くの普通の人は、おそらく、そういう人生になっても仕方がない立場だけれど、ささやかながら幸せな時期があってよかった。娘さんたちも、いい人生が送れたようだし朋江さんも満ち足りたと思うし、それでいいんだ。」と感じたと思う。
 
それこそが「日本人でよかった。日本人はそういう生き方を是とするんだ」という心情なのだ。
 
たそがれ清兵衛」は、小説とは違う筋立てなので、脚本も手がけた山田洋次監督の手腕に負うところが大きいようだ。しかも、時代考証、つまり家屋や屋敷回りなどの状況設定が見事なほど当時を思わせる。まさに幕末から明治初期の日本を撮した写真家、フェリーチェ・ベアトの写真が動画になっているかのような画面だ。
 
今回は、昨夜見た「たそがれ清兵衛」を取り上げて書いたが、「蝉しぐれ」とて同じだ。
 
蝉しぐれ」も、決してハッピーエンドなどではないが、見る人は「お互いの人生を精一杯生きて、しかも歳月を経て、万感の思いでお互いを思う。そういう人生になって仕方がなかったのだけれど、そう言い合えただけでもよかった。向かい合って過ごした僅かな時間は、それ以外の人生の時間をすべてを足してもかなわないほど幸福な時間だったと思う。それでいいんだ」と大きく深呼吸できるのだ。
 
蝉しぐれ」をまた見る機会があったら、この続きのようにして書いてみたい。