「江戸後期」と「明治」はひと続き、同感。

「江戸後期」と「明治」はひと続き。この見出しは、本日付け(2017.06.25)産経新聞文化面「聞きたい」欄に付けられていた。

私たちが、ともすれば、時代のドラスチックな転換、江戸時代は全否定、日本が新たに出発した明治時代ととらえがちなところを、実に一言で「違います」と言っていて、思わず引き込まれた。

この欄は、書物の著者に直接、その本の主題を簡潔に紹介してもらうインタビューで、今回は「『維新革命』への道」の著者、苅部直さん。

本の帯には「明治維新=文明開化」史観をひっくり返す!とある。

それ以前の封建的な精神性である「忠孝」「長幼の序」といった和魂を保持しつつ、権力の世襲や厳格な身分制を打破した文明開化は、非西洋で唯一、近代化に成功した奇跡と評されるが、それはドラスチックに転換したからと捉えた時の評価であり、実は「江戸後期」と「明治」はひと続きという史観に立てば、自然に取り入れたことによる帰結であると。

確かに、大政奉還を行なった徳川慶喜の行為そのものが、西洋の文化を「よいもの」と評価したから取り入れた行為と言える。つまり江戸後期は、日本の社会に、構造変化や進歩を求めるエネルギーが蓄積され、徳川慶喜の価値観も、その中で形成されたのだ。

本では「政権交代である王政復古よりも、廃藩置県と身分制の解体のほうが社会全体としては巨大な変化」と主張しているという。

それも同感だ。その意味で、その本質を見抜いて「廃藩置県」と「身分制解体」を断行した大久保利通をはじめとした明治新政府の業績は大きい。

おそらく江戸と明治がドラスチックに変わったと感じるとすれば、それは「廃藩置県」と「身分制解体」により、髷を結い、裃・羽織袴に帯刀した武士階級が畳敷きの和室で政治を行なったことから、中央政府から県政府まで、断髪し、洋装で、洋室で政治を行なうようになったことが、そう感じさせるのではないだろうか?

江戸時代と明治時代の何が違うかと言えば、わずか数年のあいだに、髷を結い、裃・羽織袴に帯刀した武士階級という風景がなくなったことだと思う。

明治時代になって20年ぐらいは、国内経済がよかったわけではなく、身分と禄を失った武士階級から小作農から解放されてはいない農民まで、相変わらず不満はくすぶっていたにもかかわらず、体制転覆をめざすような大きなうねりがなかったのは、もはや、ガチガチの封建制度ではない一つ前進した国家社会になったことを、日本の多くの人々が認識していたからに違いない。

それを著者は、すでに江戸後期の日本社会が、次の国家社会のあり方を求めていた結果だと指摘している。私は、江戸後期にその考え方を得た層として、下級武士、大店と言われる商家、そして庄屋などに代表される裕福な農家をあげたい。

つまり士農工商の各身分の多くの層に「西洋では、もはや世襲による権力支配や年貢などの制度がなくなっている」ことを知識として持っている人々が、日本全国に育っていたのだ。

そして1853年の黒船来航によって、日本の武士社会が牛耳っている、いまのやり方ではもたないことを知ってしまうことで、それらの人々は公然と下級武士などによる「志士」の活動を支援する。

私は江戸時代において、末端は寺子屋から上は藩校まで「学ぶ」という点において、優れたシステムを作り上げていたことが大きいと思っている。それが明治に入って学制が敷かれ、標準化されたとは言え、士農工商どの層も、学ぶということを通じて同じ「進歩への渇望」を共有していたことが、明治維新につながったと思うし、筆者が指摘する「江戸後期」と「明治」はひと続き、の本質もそこにあるのではないかと思っている。

うん。江戸から明治へ、この流れを読み解く上で、ぼんやりとしていた部分が、ずいぶん明瞭になったと思う。
基本、江戸から明治へはひと続きであり、それを支えたのは、士農工商すべての層に育った「進歩への渇望」した人々だと。

そして、江戸から明治に大きく変化したかに見えるのは、日本の社会から数年のうちに、髷を結い、裃・羽織袴に帯刀した武士階級が畳敷きの和室で政治を行なう風景が消えたことが大きい。それを長年続けてきた当人たちも、断髪してさっぱりし、煩わしい裃・羽織袴から解放され、靴を脱がずに洋室に入れることを合理的だと感じたのだ。

江戸後期は、幕府直参をはじめ、各藩の上級武士でさえも、商家から借金したり、いわば俸禄による既得権益にすがって生きることの難しさを実感する時代となり、身分的に一番卑しいはずの商家に頭を下げて借金するといった、逆転現象を味わえば、身分制度解体も「やむなき仕儀」と感じたことだろう。

まさに、日本社会のすべてが「いつ変わってもおかしくない」という潜在意識を持っていたのが江戸後期ということになる。

いつ読むことになるか定かではないが、いつか読む機会があれば、今日の記述と照らし合わせて、また書いてみたい。

ここからは、翌日6月26日に加筆した。なぜ加筆する気になったかというと、6月26日付け産経新聞「正論」欄に「司馬遼太郎の『明治』とは何か」と題した、文芸評論家にして都留文科大学教授・新保祐司氏の寄稿を見つけたからだ。

司馬さんにおける「明治」とは世界史の中の一つの奇跡であり、明治という時代には絶対的な偉大さあるということだという。そして、それを偉大たらしめたのは日本人の持つ道徳的緊張感、硬い精神性であると喝破しているのだ。

そして、侍の自らを律する精神、節度、すなわち江戸時代の武士道から来ていると語っているという。さきに述べた、士農工商どの階層にも見られた知識層が得た「進歩への渇望」に加え、日本人の精神性も江戸から明治へひと続きに受け継がれたのだ。

侍階級は武士道を、農民は「分をわきまえて勤勉に生き」、大商人は「家訓」を述べ、さらには町人階級全体を通して心の柱になった「心学」。こうした、あまねく日本人が持っていた精神性が、江戸から明治へ滑らかに移行できたバックボーンだったと言える。

廃藩置県」と「身分制解体」により、髷を結い、裃・羽織袴に帯刀し、畳敷きの和室で政治を行なっていた武士階級が、その権力と身分のすべてを失っても、現実を受け入れることができたのは、ひとえに、その自らを律する精神、節度、すなわち武士道精神によるところが大きいということだ。

日本がこれから先、どのような国難に見舞われるやも知れないのだが、武士道ほどの道徳的緊張感、硬い精神性ではなくとも、やはり自らを律する精神、節度の国民性を失わないよう、社会規範として受け継ぐ必要がある。

6年前、東日本大震災に見舞われながらも日本人が示した態度が、世界から称賛されたことを見れば、何がしかの国民性は受け継がれていると考えていいだろう。