「紅と白」高杉晋作伝から学ぶ

産経新聞に「紅と白」高杉晋作伝が連載されており毎日愛読している。新聞小説なるものを読み続けているのは人生初めての体験だ。
 
今日、2月4日(月)は、高杉晋作が、師・吉田松陰の墓前で、いまの自分が人生の四季のどのあたりにあるのか問いかけているくだりだ。
 
以下、新聞より抜粋する。
 
(先生・・・ 先生は遺著の『留魂録』のなかで、ひとの一生には四季がある、とおっしゃられていました。若くしてこの世を去ろうとも、百歳まで生きようとも、だれにでも、種をまく春、苗となる夏、収穫の秋、そしてたくわえのときの冬という季節がある。)
(中略)
(先生、わたくしはいまいったい、一生のなかの、どの季節にあるのでしょうか。まだ種から芽をふいたばかりの春なのでしょうか。 (中略) それとも・・・収穫の季節はすでにもうおわっており、あとは生命(いのち)がつきるのを待つばかりなのでしょうか-)
 
晋作は師のこたえを求めて祈るが、晋作の胸に師のことばがひびくことがないまま、目をあける。すると、そこに、ひとすじのかすかな蛍火のゆらめきを見る。
 
晋作は息をわすれ「蛍といえば初夏、たしか先生が獄につながれていた頃の和歌に、逆風をものともせずに一筋に飛ぶ蛍をうたった作があったはずだ」と気づく。
 
(おれの人生はまだ秋にも冬にもさしかかっておらぬ。おれはこれからだ。これからの時勢に必要とされているのだ!)
 
私は、これまでも小説など書物から、ストンと胸に落ちるような教訓を得たことが幾つかあるが、今回も大事なことを教わった。
というのは、私も60歳台半ばではあるが、まだ人生において何一つ成し得たことはない、という気持ちを強く持っている。そして、まだまだ、これからの人生で「私はこれをやったんだ」と言えるようなことを成し遂げたいと考えている。
 
そうなると気になるのが、いま自分は人生の四季において、どのあたりにいるのだろうということだ。それこそ晋作が独白したように「収穫の季節はすでにもうおわっており、あとは生命(いのち)がつきるのを待つばかりなのでしょうか-」と、誰かに問いかけたい。
 
私がいつも何かを問いかけたいと思っている人物は、私が一歳の時に亡くなった父である。わたしは父から何も語りかけてもらったことがない。けれども、なのか、だから、なのか、父に私の問いかけに答えて欲しいという思いが強い。
 
これまでも墓前で、あるいは海に出かけた時、目をじっと閉じて問いかけたことが何度かある。けれども、父の言葉が胸にひびくことはなかった。
 
でも大切なことを今日教わった。実はこれまでも父が何かのシグナルを送ってくれたことがあったのではないか、つまり晋作が蛍火を見て松陰先生からのメッセージだと気づいた、その感受性が必要なのではないかと。
 
もし、このあと、私が父に問いかけたあと、何らかのインスピレーション、あるいは目に見える何かを感じ、それが父からのメッセージだと気づくことが出来れば、私は父と心を通わせたと言える。すべては、私の感受性次第なのだ。
 
つくづく思う。このようなことに気づくのが、私の場合、60歳台半ばになった今なのだ。それでもいい。いまさらではあるが、気づいたのだから。